アニメの感想(ひどい)

 そういえば、ざるそば(かわいい)ってのありましたね。あれけっこうおもしろかった。

 

 あーなんかひっさしぶりにアニメ見てました。なんか途中で文章書きに熱中してて、それ以外の時間がなくなってたんですよね。

 あとミリムかわいすぎてミリムしか見てなかったという事情もあります。

 んで今日は、転スラの17話と18話、それと盾の勇者の3~5話を見ていました。あ、内容ひどいので気をつけてください。そういうつもりはなかったんですが、途中から自動的にひどくなりました。

 

 転スラについては、とにかくアニメ化に際して非常に整頓されている印象で、これはなろう原作全体の傾向でもあります。なろうかどうかはさておき、web小説原作の全体的な傾向でしょうね。幼女戦記にしろナイツマにしろ、アニメになってぐっと整頓されて見やすくなった印象が強いです。あとあのへんの作品で人気出るやつって、なんらかの点でキャラがヤケクソ気味の力あったりするので、ことのほかアニメ化と相性いいってのもあるんでしょうね。構造上「主役」というものにものすごい比重がかかってくるのも、昨今の商業作品とはちょっと事情が違うかもしれない。

 転スラは書籍化でしか読んでません。なんでもwebと書籍だとだいぶ内容が違うらしいんですが。で、その書籍化での印象なんですけども、昨今まれにみる「でかい話」を書ける人だなあと。というか、これは商業作品でそういうので出てきづらいってのもあるかもしれません。

 俺はあんまり業界事情とか知らない人なんですけど、昨今のラノベの状況見てる限り、最初から大長編を前提とした作品なんて作れるはずねえだろってのがあるんですね。ただその点を差っ引いても、あれは長ければ長いほどおもしろい作品書く作者なんだろうなあという印象です。

 でかい話書ける人って、とにかく「どうにでも使える作品全体を貫くルール」を作るのが上手です。さらにパワーバランスの配分が実にいい。転スラでも強さのインフレみたいなのはあんまり起こらないし、だれが強くてだれが弱いっていうのがわりと崩れない。崩すときはかならず理由をつけてくる。

 さらに、いい意味で行き当たりばったりです。大長編といえば俺の世代だとまずグイン・サーガを思い出すんですけど、栗本薫ってそういうのめっちゃうまい人じゃないですか。「あのときにあったあのエピソードがここにつながる」っていうの。あれ、作者がすべてをフラグ管理してるっていうのは、ちょっと人間業ではないわけで、実際には「ああ、あのときあんなことがあった」って思い出して使ってるに違いないんですよね。書籍化っていうことで一度整頓されているとどうかなとは思うんですけど、それでもこの作者はそのへんがうまい印象です。

 あとはキャラですかね。いやみなくいい人間をこうも多く用意できるっていうのは、それじたいがもうひとつの才能というほかない。

 そして、ミリムです。

 なんか悪いウイルスに感染してるんじゃないかってくらいミリムに頭を占領されています。本質的におもしろい話だってわかってるのに、へたにミリムがかわいすぎるせいでミリムが出てこないと「そんなおっさんどうしの話はどうでもいいから、ミリムが散歩したりなんか食べてたり昼寝してたりトイレ行ったりしてるシーンをずーっと追いかけろ」とか思い始める。これ俺のよくないくせです。

 原作でも、書籍化にあたってミリムはかなりかわいい化が促進されてたっぽい節はあるんですが、そしてその段階で俺は完全にミリムに陥落してたわけなんですが、アニメ化に際して、ミリムかわいい化が天井知らずで進行しています。あれはもう、はっきり狙ってそうしてるわけなんですが。

 16話でのからして、スライム状態のリムルをつついてるミリムなんて、もう「かわいい子がかわいいことする」をはっきり意識的にやってます。魔王としてブチ切れてるとき以外、すべての登場シーンでミリムはなんかかわいいことやってるといっても過言じゃない。唯一の不満点としては、原作では「桃金色」と表現されている髪が、アニメでは完全にピンク色になってることくらいです。金髪マニアとしてはちょっと残寝てものがあります。

 でもミリムかわいいからどうでもいいです。17話でも18話でもそれぞれおきがえしてて、どの服も似合っててミリムかわいいなあ♡ もともとかわいいからなに着てもかわいいなあ♡ という状態で、もうだめです。

 それと、あれだけ露出の激しい服装でありながら、体の動きに女の子っぽい感じがいっさいないんですよね。足はがばっと大胆に開いてるし、そういう女の子っぽくない感じが無邪気とか子供っぽいとかそういう印象を強く与えて飴あげたいなあ、口のなかの感触確認したいなあという感じを与えてくれてすばらしいです。

 16話では、ミリムの立ち姿を横から描写したカットがあるんですが、そのときのおなかのラインもなかなかよいです。ああこのなかに内臓あるんだね、はちみつなめたら、内臓を経由するんだね……という感じを強く実感できてよいです。そもそもあんなに細いのが反則ですよね。なんかもう骨格からして華奢って感じなのに、あんなに大胆な服を着てミリムはひどいなあ♡ そんなにかわいいからおしりとかつい見ちゃうんだぞ? あのほとんどおしりが出てるようなデザインの服もとてもよくて、ちょっと指ひっかけたら見えちゃいけないところが見えちゃいそうだなあっていう想像がはたらくじゃないですか。となると必然的にすぐに見えちゃいそうな排泄器官がどう機能するのかなあ、魔王でもはちみつなめてるくらいだから、きっとトイレ行くんだろうなあ、鼻つっこみたいなあって気分にもなるじゃないですか。なんか過剰に気持ち悪いな今回。

 そもそも論として、あの世界、リムルのいる町以外で風呂なんかろくに普及してなさそうで、だとしたらミリムもきっとあの町に来るまではお風呂なんかろくに入ってなくていくら魔王でこう、なんか浄化魔法とかそういうの使えそうな感じ(なんかそういう設定あったような気がする)ではあるんだけど、近づいたらちょっとはくさいのかなあって想像するじゃないですか。でもミリムなんかいいにおいしそうなんですよ。風呂用意したくらいだから、リムルもたぶん石鹸くらいは開発してるんだと思うんですけど、シャンプーやコンディショナーまで開発したような記述は特にないので、となると、仮に毎日のようにお風呂入ってたとしても、ミリムそういう意味ではいいにおいしないと思うんですね。だからなに、あの、お風呂上がりとかミリム本来の天然成分のにおいとかちょっとわかるんじゃないかと思うんですよ。それすっごいかぎたい! もうなんかずっはずっはものすごい勢いで吸収したい。高分子吸収おじさんとしてミリムの体臭全部吸い取りたい。まぶしたい。そしてまみれたい。

 さらにミリムのかわいいところはなんかいつも食べてることです。ほっぺたとかふくらむし、なんかもごもごしてるしすごいかわいい。なんか食わせたいキャラっていうと、直近ではゆるキャンのなでしこなんかがそうなんですが、あれはなんだろ、食わせて幸せそうにしてるところを見たいという感じがあって、副次的な要素として、標準体重の上限くらいまで肥えさせておなかの肉とかつまみたい、というような欲望が中心になるわけなんですけど、ミリムの場合は純粋にほっぺたの動きとか舌ぺろぺろしてるのとか指についた食べものをなめとったりとか、そういう動きのひとつひとつがかわいいのでめっちゃ録画して5時間くらい繰り返し眺めたい。舌の見える瞬間とか秒単位で記憶して家に帰ったら「あー今日も疲れたなーミリムの舌でも見るか」って日課になるんですよ。

 あとわりと話は飛ぶんですけど、どうも日高里菜という声優さんの声に徹底的に弱いらしくて、あまりに繰り返し聞いてるうちにダメ絶対音感が蘇ってきました。まさか50近くになって「その声優さんの声ならどれでもかならずわかる」なんていうクソみたいな能力が復活するとは思いませんでした。わりとすっごいいらなかったですこれ。こんなん横山智佐以来じゃないのか……。俺がどれくらいこの声優さんの声に弱いかというと、Tシャツに「巨乳キャラを絶対許さない」って筆文字で書いてあるくらいの巨乳苦手の俺が、ネトゲ嫁のアコにうっかり落とされたくらいですからね。ああ声かわいいなあ。アコはこんなかわいい声をしていたのかあ、よく見るとアコ本体もかわいいなあ。おっぱいも許せるかなあっていう流れです。

 そんな声で「マブダチなのだ!」とかやられたらもう、私の中の陰茎が目を覚ましたようだな……ってワイングラスでも傾けながらディスプレーに向かって五体投地するしかなくなるじゃないですか。もうミリムがなにいってもかわいい状態ですよ。おしっこしたいのだとか言われたら、その場で頭頂部からチューリップ生えて、そのチューリップが爆発して汚い核の雨降りますよね。被害は俺にしか及ばないからまあいいんですけど。

 というわけで、ミリムがかわいいっていう話でした。

 

 さて、本題です。もうだれも読んでないことを確信してるので好き勝手書ける。いや俺なら読まねえよこんな文章。

 本題は盾の勇者のほうっすね。

 これは……なんつーか、変わった作品です。タイムラインの某氏が言ってましたけど、この2019年にこれだけストレスフルな展開やってて、どこに需要があると思ってんだ、みたいなことです。いや、実際こんだけ主人公がひどい目にあう作品って、昨今わりと珍しくないですかね。上条ちゃん以来?……ってことはないか。

 この作品の珍しいところは、最初からお話が構造的に「主人公を貶める」ためにできているということです。タイトルが「成り上がり」なので、どこかからカタルシスに転じるには違いないんですけど、4話までほとんどひどい目にあいっぱなしってのは、ちょっとすごいなって思いました。

 でまあ、5話までの段階でこの展開に意味があったのはラフタリアに「世界中のだれもがあなたのことを信じなくても私はあなたのことを信じている」的なセリフを言わせるためです。後半になりゃカタルシスって話にもなるんでしょうが、5話までの段階では、これが核心です。

 いやこれがさあ……ほんと見てて「うわあ」ってなりましたよね。いや、そりゃ昔はよく見かけましたよこれ系の「たとえ世界が敵に回っても」ってやつ。俺時系列の記憶が曖昧なんで、てきとーに言いますけど、あれってエヴァが一度は解体しちゃったやつなんじゃないかと思うんですよね。劇場版見てねえから知らないですけど、シンジ君にはいないわけじゃないですか、そういうの。そこからあとの時代、女の子に救いとか癒やしとかそういうの求めたかったら、もっと直接的に女の子を与えてくれるメディアに頼れよって感じになってきた。たぶんこのへん分析してる人いますよね。俺が知らないだけで。

 なんでまあ、いまの時代、女の子が欲しかったら女の子たくさんいる楽園行けよって話なんでしょうけど、理不尽に戦わざるを得なくて、すべてに負けて、女の子だけは信じてくれるっていう、そういう光景、2019年になって見るとは思ってませんでした。それもめっちゃナマに近いかたちで。すげえっすよあれ。5話でしたか、一度は消された奴隷紋でしたっけ、あれをもう一度自分から入れてほしいってラフタリアが言い出すシーン。ヒィィってなった。このアニメいったいどこの層が見てるんだろう。原作は知らんのでよくわからんですが。

 で、個人的な感想としては、ラフタリアが成長してしまったので死ぬほどがっかりしました。あと5話で金髪ロリ出てきて羽まで生えてたので、もう思い残すことはないです。日高里菜だし。終わり。

自由に似ているもの

 なんか読者がもりっと増えてんな。まあシロクマせんせの言及のおかげですけど。言及してもらったのはうれしかったし、内容はおもしろかったし、おもしろかったという以前になんか謎の説得力と迫力ありましたねあれ……。

 

 

 それはそれとして、バイトテロの話です。ちょっとこれ思うところがあって。 

 やー、あれだれが悪いとかそういう話じゃない気がするんですよ。金が絡むことなので、そりゃ個別の事案についてはちゃんとそれなりの判断っつーか精算みたいなのしてかなきゃだめでしょうけど、たとえばバイトが悪いってゆって金銭的に、あるいは社会的に制裁加えてですね、それを繰り返していった先にあるものはなんなのか。そりゃいつかはなくなるのかもしんないですけど、そしてそういうふうにしか時代ってのは動いていかない気もするんですけど、それにしたってどうなのと。

 あれ前から原因っていくつかあるんじゃないかなーって思ってんですよね。

 ひとつは教育不足。これだけだとなにも言ってないに等しいんで続けますが、いまどこの業種も店も、バイト中心の業態のとこは、人件費で相当に苦しんでると思うんですよ。原因は最低賃金のアップ。ここでは最賃がアップすることのよしあしについては言及しません。とにかく事実として最賃がアップして「以前と同じだけのマンアワーを確保してても、人件費が利益を圧迫する」という状況だけは厳然として存在する。

 で、どうするかって話ですよね。原価コストの徹底削減とか、廃棄の抑制、まあ努力でどうにかなる部分はありますけど、これもう物流からベンダーからなにからもう限界に近いとこまでやってんですよ。その限界っぷりがブラックなんちゃらってことで表面化してるわけじゃないですか。

 やっぱ本命は省力化ってことになるわけです。

 最初に話題になったのは某回転寿司ですけど、あれって省力化の最先端だと思うんですよね。だって利用したことある人は感じません? なんかもう、入口から出口まで、徹底してなんかのシステムに乗せられてるって。あれってフランチャイズとかこの手の商売の本質を露骨に表現してると思うんですよ。その本質ってのは「客は店の用意したベルトコンベアに乗せられて入口から出口まで管理される」っての。

 あたりまえなんですけど、効率を重視したら客に勝手な行動されたら困るんですよ。全員同じようにふるまうのが望ましい。店舗でいちばん好き勝手にふるまうのって客なんで。その客の行動を制御すべくシステムが組まれていれば、ほかのとこだってけっこう自動化できるわけです。自動化できれば、人間のやること定型化できますんで、オペレーションは極めてシンプルにできます。

 まあこれはこれでまた別の問題を孕んでる(仕事すごいつまんない)わけなんですけど、それはいまはいいとして。

 この方向性って、およそチェーン店とかそういう業界では、だいたい一致してると思うんですよね。そして成果も上げてると思う。俺は効率という宗教の信奉者なので、これはこれですばらしいことだと思います。

 ただ問題がひとつ。

 これ、教育にかける時間をほとんどとれないんですよ。

 まずもって、オペレーションがごくごくシンプルであるということは、そもそも教育に時間をかける必要がない。コストカットにはすごい役立ちます。さらにいうと、たいていのバイト中心の業態は、1時間単位で人件費を管理して死ぬ気で削ってるはずです。教育って、教える側と教えられる側が両方必要で、しかも教育の時間って、両方とも戦力にならない。人件費的には完全に無駄なんですよ。

 でもこれ、現場で感じる人多いんじゃないかなあ。バイトの帰属意識を育てられなくなったって。

 帰属意識とかはてなでは完全に地雷ワードのひとつなんですけども、それでも俺がこの単語を引っ張り出すのは、これがバイトテロみたいなものを防ぐ唯一の最適解だからです。教育って、もちろん仕事を教えるわけなんですけど、その背後には決して無視できない非言語コミュニケーションかある。つまり「俺はおまえに仕事を覚えてもらいたい」「この人は自分のために仕事をおしえてくれている」です。俺は原則としてこういう「対面だからこそ意味がある」みたいなのって大嫌いなんですけど、じゃあおまえそれ使ってこなかったのって聞かれたら、死ぬほど使ってきた。

 なんだろ、店のトップって店そのものなんすよ。店の意志なんです。まあほかに教育する人がいればその人が代弁者になりますけども、よくいわれる「仕事における意識」みたいなのですよね、こういうのって「この店ではこういうつもりでみんな働いてる」ってのを人間から人間に泥臭く伝えていく以外に共有のしようがない。ここのコストがめっちゃかけられなくなってるんですよ。

 実はそれだけじゃなくて、バイトのほうでも店に帰属意識を持つ理由なんてないに等しいんですよね、いまの時代。だってほら、スマホあるしSNSあるから。わかりやすくするためにネット以前の話を持ち出しますけど、当時のコミュニティって、リアルだ一緒にいれる「場」ってのが絶対に必要だったじゃないですか。だっで、ほかに効率のいい仲間意識の醸成方法がなかったんだから。でも、ケータイが普及して、現在のスマホになるにつれ、コミュニティって概念化してる。複合的で重層的で、なんかさまざまな同心円がいろんなレイヤーで立体的に重なってるような。その交点に曖昧に存在してるような感じなんでしょ、最近の若い子って。

 だから、バイトみたいに「金」っていう目的がある場所にわざわざ帰属する必要なんてどこにもねえんですよ。

 ただそれでも雇う側としてはやるしかない。なんでって、それがリスク回避ですから。ネガティブに言えばそうなりますけど、自分が信頼できる人間は自分が育てるってことですよね。くどいようですが、これを最賃で雇うバイトに期待していいかどうかってのはまた別の問題です。同じ仕事を同じ量だけやらせるのでも、やらせるほうは安心したい。できれば自分がやっていて「意味がある」と思う仕事を、バイトにも同じように思ってもらいたい。それは雇う側なら多かれ少なかれあるはずです。

 勢いのある店、レベルの高い店って、だから、かならず教育に時間をかけます。それが店をチームとしてまとめる最適の手段だからです。

 

 つーか、アホは昔から存在するわけで、そもそもSNSがなきゃ拡散もなにもあったもんじゃねえよ、というのもあります。

 これについてもちょいと思うところがありまして。

 なんかねー、最近の小学生とか中学生見てると「いきなり社会に放り込まれてる」っていう感じがすごくするんですよね。特に俺のやってる商売(いちおうぼやかす)だとことによく見かけます。

 この感じ、どこから受けるのかなーと思うんですけど、ひとつは言葉が達者なんですよね、いまの子供。あれはなんだろ、どこから来るんですかね。ちょっとこのへんよくわかんないんですけど。見かける親子づれなんか見てると、親が子供を子供扱いしてないってのは感じます。早く社会性を身につけることに関して、いまの子供って俺が子供だった40年前より相当にプレッシャーあるんじゃないですかね。

 同時に、たとえばコンビニなんかですと、システムに則った振る舞いをしている限りは、相手が90歳の老人だろうと、子供だろうと一緒なんですよね。要するに「もの買って出てく物体」をベルトコンベアに乗せてるだけなんで。そういう原理でできてます。キレる老人なんてのは、そのベルトコンベアにうまく乗れないってのが理由のひとつなんじゃないかと思ってますけど。

 

 ちょっとこのへん、俺の手には余る問題で、直感でしか言えないんですけど、社会全体にそういう無数のベルトコンベアがあるから、慣れるのが早い一方で、乗りかたそのものに習熟するのは早くても、乗ったあとの振る舞いとかそういうのまではだれも教えてくれないんじゃないのか。そして「教えてくれないくせに、うまく乗れないと、いきなり突き落とされる」という状況があるんじゃないのか。

 そんで、なんていうんだろ、これはあくまで現場で見ている俺の直感でしかないんですが「乗ってないときはなにやってもいい」という感じがあるんじゃないかと思うんですよね。そこしか遊べる場所ないから。SNSってのはそうした場所のひとつとして機能してるんじゃないか。もちろん2019年現在では、そこもまた社会の一部ではあるんですけども、実社会以上にだれも教えてくれないし、叱られることもない。たいていの子は早い段階でそれにすら気づいてしまうんだけど、一部のアホは、昔もやはりアホであったように、そういうのに気づかないまま好きほうだいをしてしまうのではないか。そんなようなことを思うわけです。子供にとっての空き地というか。

 まあ後半、根拠らしきものがないんで、ふわっとしてますけど。

 見える範囲に叱る人がいない、大人がいない、教える人もいない。それはいっけん自由ってものによく似てると思うんです。けど同時に、それはなんとなく荒野にも似ている。空き地だと思っていたそこは、そのままで目の前の道路から世界につながっていて、世界には未知があふれていますから。情報は次から次へと押し寄せてきますけど、その情報が教えてくれるのは、世界の任意の一点に過ぎない。けど、実際に行ってみなければ、それが点であることすらわからないんです。

 バイトテロなんていうと、どっちがいい悪いの話になりがちなんですけど、実はもうちょっと大きな視野を必要とするもんなんじゃないか。

 あとさー、大人が子供を正当に「子供」として扱ってない光景を見ることが多すぎる気がする。特にネットはそうだよね。

撮影終了のその後

 音楽聞きながら書いてるので、内容が酔っ払っています。

 

 俺は作中のメタ言及に親でも殺されたのかというくらいに、作中のメタ言及が嫌いです。俺にとって小説でもマンガでも作品というのは「ここではない別のどこかに確実に存在する世界」であり、少なくともそうであってほしいと強く願っており、メタ言及っていうのはそれを根幹からぶっ壊すから嫌いなのです。

 しかし不思議なことに、スターシステムみたいなのはぜんぜん気にならないんですよね。たとえばほら、すっげーシリアスな内容の作品で、登場人物がぼろぼろになってるようなときに、あとがきで平然と座談会とかやってるの、昔よくあったじゃないですか。あれは平気で。

 この傾向が特に強くなってきたのってここ10年くらいかなあ、なんかあったかなあと思って考えてたんですけど、はっきりした原因がありました。

 ナルキですわ。

 もうだいぶ昔の作品なんでネタバレもなにもねえと思うんで、考慮せずに書いていきますけども、あれほんときつかったんですよね。いまとなっては、死にオチってのも手法としてなしではない、少なくとも物語の内部で起きたことが一瞬にして過去になるわけで、それを過去として噛み砕いてほしいと思ったときには有効な手法だとも思ったりするんですけど、でもやっぱきついんですよ。観鈴ちんのときは、それこそフィクションの世界から拒絶したように感じましたし。

 でもナルキのあれってちょっと違うんですよね。予定された死が予定どおりに近づいて予定どおりに死にましたよっていう、まあそれだけじゃないですか。死というものが、まるごとそのままごろりと転がってるわけで、あれはもう受容する拒絶するもあったもんじゃなくて、要は「人は死ぬ。残念だったな」という以上のことがなにもない。あとはおまえが自分でなんとかしろってことですよあれは。

 そんで、あまりにきつくて、ある日とつぜん思いついたんすよね。これ映画の撮影かなんかで、監督かだれか知んないけど、そういう立場の人が「はいカットー」って言ったら、セツミ先生ががたがた震えながら海から戻ってきて、どこぞの工務店のタオルで体を拭きながら「もうやらないからね」って不機嫌そうに言うんです。その妄想って俺にとってすごく救いで、それ以来ですね。キャラは作品っていう物語を演じてる、というような考えかたがしっくり来るようになったのって。

 

 けど、そう考えると、それって昔からじゃないかなって気もするんです。だーいぶ昔、以前のブログかさらにその前だった気もしますけど、ラピュタが終わったあとの平和な日々、なんてことのない日常を見たいと子供時代に強く願った、みたいなことを書いたことがあるんですよ。ログどこにも残ってねえから、俺が書いたっつったら書いたことになるので便利だなこれ。

 いやそうじゃねえ。

 これハッピーエンドであろうとそうでなかろうと、俺、ひょっとした似たようなものを読みたいんじゃないかなーと思ったんすよね。つまり「はいカット」のその後を。紆余曲折あって結ばれた主人公とヒロインは、撮影が終わったら「じゃ、帰ろうか」「だなー」とかいいながら呑気に手をつないで家に帰るんですよ。そこからスタートするような、平和な日々ってのを俺は見たかったんじゃないか。

 というだけの話です。

 うん。そういうの読みたいです。すごく。

宇崎ちゃん2巻

www.amazon.co.jp

 

 2巻出ました!

 えーと、これ中身ある程度は読めるのかな。最近では有数にお気に入りのマンガのひとつであります。といってもマンガじたいあんまり読んでないんですけどね。

 内容については、おためしである程度は読める以上、特に紹介する必要もないかと思います。できるだけ努力して客観的に見ると、まずは主人公と宇崎ちゃんの距離感みたいなのがうまく定義されてることです。ラブコメの基本は障害であります。なぜなら障害がないとくっついてどうかするとセックスまでしちゃうからですが、この作品では、主人公が鈍感であること、宇崎ちゃんのほうがおそらくは恋愛感情を自覚していながらも、同時に「先輩といることが楽しい」というあたりでごくシンプルに完結してしまっているため、そのままでは距離が縮まらない、という構造になっております。

 この手の「当人どうしになんらかの問題があってくっつけない」という構造って、けっこう不自然な設定とか導入されてたりして、見ててえぇ……ってなることけっこうあるんですが、そこは宇崎ちゃんの攻撃的なまでのかまわれたがり(だと思うんだけど、あれは)のおかげで完全に抹消されています。

 つまり、骨子のところで「よくできたラブコメ」であるということです。

 さらにギャグ作品としてのおもしろさですね。笑いってのはどうしても作者との相性問題が発生するんで、まあ読んでみないと合うかどうかはわかんねっすねーみたいな部分あります。ただこの作品の場合「ほんとは作者これ野放しにしたら相当にやばいのでは」と思わせるような雰囲気があって、それを商業作品とするために抑えつけているような印象があります。その抑制がポテンシャルとなって、おもしろさを担保してるような、そんな感じですかね。

 宇崎ちゃん、ほんとに鬱陶しいので、完全に読み手を選ぶタイプの作品ではありますが、自信をもっておもしろいとおすすめはできます。

 

 とまあ、しいて客観的になるべしと思って書いた感想は以上です。

 個人的には、俺なんでこの作品気に入ってんだろうという感じがあります。というのも、俺そもそも宇崎ちゃんみたいな人間、すげえ嫌いなんですよね。これリアルでいたら2分くらいで「もうなにがあってもこの人間には近づかない」って決意してると思う。

 さらにいうと、巨乳ですわ。

 俺がいかに不自然な巨乳を嫌っているかということは、過去にこのブログでもさんざん書いてきましたし、なんなら増田でも書いたし、たぶん以前のブログでも書いてたと思う。そしてそのアレルギーめいたものが「過剰におっぱいを性的なものとみなす視線」みたいなものに由来してるんだみたいな話も何度も書いた記憶がある。乳袋撲滅委員会の会長(構成員俺一人)をやってるのも、そういうような理由です。

 ところがこの作品の場合、そのアレルギーがほとんど出ないのですよね。そりゃ宇崎ちゃん、乳すっげーでかいんですけども、そしてその乳のでかさには言及されないわけではないんですが、少なくとも登場人物のだれひとりとして、宇崎ちゃんのことを「巨乳キャラ」とはみなしてない。ここが大きいんだと思う。俺はどっちかっていうとロリゲーやっててほんのわずかでもおっぱいがふらんでると「ロリじゃない!!」とか怒りだすくらいの原理主義者ではあるんですけども、それでも一般的に男性は大きなおっぱいを好むという理屈はわかります。主人公がそうであっても別に不思議ではありません。主人公も、やはり宇崎ちゃんのおっぱいのことは気になっているわけですが、それがでかいから好きとかぺったんこだから好きとかそういう話ではなくて、あくまで「宇崎ちゃんのおっぱいだから不可避的に気になる」というのが原則なんですね。これなら俺にもわかるんです。そしてそれはでかい。そういう理路なら理解できる。

 なのでまあ、少なくともアンチ巨乳ではある俺でも、宇崎ちゃんは特に気になりません。どうかすれば宇崎ちゃんのおっぱいならもみたいと思うところまで羽ばたくことができます。

 

 ただそれだけでも、やっぱりこういうギャグきつめのラブコメってどっちかっていうと苦手っていう印象があって。やっぱなんで気に入ってんのよってのは謎だったりしたんですけど、2巻読んでるうちになんとなくわかりました。これ、宇崎ちゃんと主人公の「つきあってないけど、すごい仲いい」という関係性にぶっ殺されてるんですね。

 やー、俺、関係性マニアなんすよ。あまりに関係性が好きすぎて、キャラは男でも女でもどっちでもよかったりする。俺がBLと呼ばれる作品群を大好きってわけではなくても理解は容易にできるのはそのせいです。

 人は経験してないことにリアリティを感じられない。たとえばエロゲの水着イベントについて以前書いたことがあるんですが(これもう前のブログだったか増田だったか記憶にねえ……)(まなめさんに反応もらった記憶があるから、たぶん前のブログ)、俺にはそもそも「女子とどこかに遊びに行く」という経験が人生において一度もありません。だからそれは単なるファンタジーなんです。水着イベントに思い入れを持つためには「あのときの楽しさ」「どきどき感」みたいなとっかかりは必要なんですよ。

 その意味で、俺は「恋愛が始まってしまったあと」というのにさほどの興味を抱かない人間です。このへんはややこしい話になるんですが、俺は恋愛というものを他人と成就させたことがないので。なので「それ以前」の話にかなり弱いです。

 さらにいうとですね、この大学生のぐだぐだ感ですね。はじめての飲酒だとか、終電なくなって泊まるだとか、このへんの大学生活に対する過剰な怨嗟もエンジンになってる気がします。俺は大学に進学する機会をみずから投げ捨てた人間で、まあそのことじたいは別に後悔してないんですけど、年食って「俺はさほど異常な人間ではなかったのでは?」という疑念が兆してから「ひょっとしたらできたかもしれないこと」に対する執着が異常に強くなってきました。そしてその象徴のひとつが「大学生という日常」だということです。

 

 いろいろ長々と書きましたけど、俺の巨乳アレルギーを刺激しないというだけでも、信用できる作品です。照れる宇崎ちゃんの破壊力すごかった……。

 

※追記

 そういえばラブコメにおいて信用できるかどうかの判定法として「セックスになったらこの二人はどうなるか」ということを想像するというのがあります。こんなひどい判定法もそうそうない。この点で、宇崎ちゃんたぶんいざエロシーンとなったらすっかりしおらしくなってしまう感じがちんこに振動が伝わるようにわかるので、すごくよいなあと思いました。書かないほうがましな追記だとも思いました。

音楽

 スミザリーンズというバンドがすっげえ好きである。

 音楽について語りだすとキリがないわけだが、同時に体系的に聞いてこなかったのと、ジャンルというものをほとんど意識してこなかったうえに、固有名詞の記憶力がものすごい悪い。もちろんおっさんになったいまではもう最悪の状況だが、これは十代のころから連綿とそうだった。さらにいうと、記憶の時系列がめったくそ怪しい。これらが組み合わさると、なんら具体性のない「なんかすっげえいい」「もうだめだ」「勃起する」などの感想をどうやって言葉で飾って表現するかというほとんどだれにとっても意味のないものになってしまう。

  スミザリーンズでは以下の曲が好きである。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

  そしていまYouTubeのコメントで、フロントマンであるパット・ディメジオが死んだことを知ったんですけど……え、まじで……基本的にこのバンド、ずっとリアルタイムで聞いてきたのに……。まあ最近めっちゃ太ってたからなあ……。

 まあいいや。いまはその話題じゃない。

 このバンド、いわゆるパワーポップといわれるジャンルだと思うわけなんですが、俺は、人生のどこで植え付けられたのか知らんのですが、メロディがよくてシンプルなバンドサウンドというものに異常なくらい弱い。音楽そのものに対する趣味としてはわりと節操なくて、さっきもKOTOKOとかRay(「季節のシャッター」は死ぬほどよい曲なので聞いてください)が軒並みサブスク解禁になってたの気づいてずっと聞いてたりしたんですけど、根っこのところではそういう音楽に対する強い執着がある。

 ふつう俺の世代でこういう状況だと、ビートルズの影響がまっさきに考えられるんですけど、ビートルズを聞くようになったのは成人以降のことで、それあんまり関係ない。ほんとにこの嗜好がどこから来たのかは謎です。

 ポップでわかりやすくよいメロディにもっさりとしたサウンド。どうもこのへんが連綿とツボらしい。

 で、ちょっと音楽に詳しい方ならこうなるじゃないですか。じゃあマシュー・スウィートとか好きなんでしょ、と。

 それがですねえ……名前はもちろん知ってたんですけど、今日いま、この瞬間になるまで聞いたことなかったんですよね……。

 このへんになると、もうリアルタイムで聞いてるはずで、むしろなんで聞いてなかったんだよって謎なくらいなんですけど、まあ考えてみると謎でもなんでもないんですよね。ほら、マシュー・スウィートって音楽以外の部分でわりと有名じゃないですか。アニメ好きとかで。こうなると、十代から二十代にかけてのめんどくさかった自分は、なんとなく毛嫌いしたりするわけですよ。

 で、今日聞いた曲がこれ。

 

www.youtube.com

 

 もう、たまんねえです。

 ちょうどこのころ、オルタナの出始めだと思ったんですけど、REMとかどうもあわないなあっていう感じがあって、それっきりアメリカの音楽ってあまり聞かなくなってたんですよね。

 ところでこのマシュー・スウィート、その後、21世紀になってからスザンナ・ホフスと組んで自分の好きな曲をカバーするアルバムを3枚出してるらしく、それがすごくよい出来でした。

 しかしまあ、なんですね、リアルタイムで聞いてておかしくないバンドを、2019年になってからインターネットで再発見するっつーのは、なんとも妙な感じではあります。