人間としての義務

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 そうそう、これ読んでけっこうおもしろいなーと思ったんですよね。
 俺は世が世ならなんかの病名ついてるタイプの人間で、ただ俺が育ってくる過程では病気の範疇に入らなかったので、そのまま野放しになってる人間です。
 具体的には、

・ピタゴラスイッチ的なもの見てると興奮で我を忘れる
・回転するものとか音の鳴るものに異常な興奮を示す
・渦巻き状のものは特にやばい
・前後の脈絡なくいきなり楽しくなってじたばたしたくなる
・空気よめない

 なんてあたりでしょうかしら。
 まあ、いまはもうおっさんなので、呼吸するのきつい感じはほとんどなくなったんですけども、昔はけっこうつらかったです。
 以下は昔の話です。
 俺にとって人間は「味方」と「それ以外」に分かれます。味方ってのは、俺が味方だと定義した人間です。相手がどうとかあんまり関係ないです。味方なので味方です。味方じゃなさげな言動を相手がするとどうなるかというと、俺の世界から消えます。味方以外のものはなにかというと、人間じゃないです。なんかモノです。このへんの感じって説明してもわかってもらいにくいと思うんですけど、俺にとって他人っていうのは「なんかそういうふうなシステムに動かされてる人間に似たなにか」です。じゃあ自分はっていうと、ほかの人がいる場所では「なんか自動的に動いてる自分っぽいなにか」ということになります。自分ひとりでいて、自分の思考に没頭してるときはこういう感覚はあまりありません。
 このあいだひさしぶりにやらかしまして、電車待ってたんですけど、目の前に電車が入線して出ていくまでぼーっとしてて、気がついたら電車がいなくなってました。終電の一本手前だったのでまじでやばかったです。これ、どういうことかっていいますと、自分の前で起きていることは認識してるんですけど、なんかこう、なんだろ、ディスプレーの向こう側で起こってることみたいで、自分の妄想というか、想像みたいなもんとあまり区別がなくなるんですよ。もうずいぶんと長いことこんな症状出てなくて、なんかの老化の始まりかと思ってちょっとこわかった。

 リンク先の人の書いてることですごいなーと思うのは「それでもまだ諦めてない」ということだと思います。これ時代の違いもあるんですかね。ちょっと「現在」の状況がわからないので断言はしかねるんですけど、俺が十代二十代だったころって、たぶん、発達障害とかそういう名称がなかったかわりに「おかしいやつ」みたいなジャンルがあったんだと思うんですよ。そこって、入れられたらもう簡単には出られない場所ではあるんですけど、逆に入ったら安定する。もちろん当人はきついんですけど、少なくとも場所はある。だから俺は今日まで生存できてたわけです。逆にいうと、現在は、諦めたらもう食ってけない時代なのかな、とも思います。
 俺はかなり早い段階で、自分が周囲と同じ人間であると扱われることを諦めていました。また周囲のことを理解するのもかなり難しいと感じていました。俺にとって人間とは(基本的に)「俺とはまったく違うルールで動いてる、たまたま日本語をしゃべってる人間っぽいなにか」でしかありませんでした。俺はかつてそれを「さては世界は正常に機能してやがるな?」という言葉で表現した。ひょっとして人の世界というのはそれ相応にうまく回転していて、俺だけ外れてるのかもしれない、と。なので、俺がやるべきことは、なによりもその「ルール」を観察することでした。知っていればどうにかなることもありますから。
 俺は「人は、人と過ごすことが楽しいということがありうるらしい」ということを知ったときの衝撃を、いまでも忘れません。
 俺には他者とやらが存在しなかったので、自分の存在を敷衍して考えることしかできないです。なので、この世の人は「本来ならまったくする必要なく、また苦痛でしかない」「人間関係というものを」「楽しそうにやっている」という崇高な義務を果たしている偉い人たちだと思っていました。そしてそれをしない俺は怠惰な人間である。人間は物理的にまったくの一人では生きられないのだから、人とつながる「べきである」。それをしないのは義務を遂行していない悪いことである。
 まあいまにして思えばおまえなに言ってんだって話なんですけど、当時の俺は真剣にそう考えていました。いいも悪いもねえよって話で。
 そんな感じです。
 この話題についてはまた書くことがあるかもしれないです。