おもしろがること

 とりあえずなんでもいいので毎日更新してみようかなあと思ってるんですが、書くことがなにもありません。セブンイレブンがうどん元年とか始めたらしいので、それを視察に行ってケチでもつけようかと思ったんですけど、仕事終わったあとだと行く元気もなく、家に帰ってお兄ちゃんの知らない物語聞いて泣いてる始末です。

 はてなのホッテントリは毎日いちおー目は通してるんですけど、ふと思ったんすよね。なんか絡みづらい題材増えたなーって。これ俺が衰えたせいなのかなーとも思ったんですけど、どうも違うっぽい。要は新聞の一面と三面記事をあわせたような感じのホッテントリがとても多い。かつてはそこそこ個人ブログのエントリが入ってて、そういうのには「あ、俺はそうは思わないな」と思うことが多かった。

 そういえばわりと最近に増田で「ブコメは否定ばかり」みたいな内容のやつ見かけたような気がするんですけど、書く原動力のひとつって異議申し立てなんですよね。賛成であれば言語化する必要がない。

 でまあ、俺は原則政治経済にはほとんど興味がない人間なので、そうなるとホッテントリに出てる内容見ても「はぁそうですか」くらいしか感想がない。

 ただそれとは別に思うのは、おもしろいものを探す能力が格段に落ちてるなーということです。これは加齢のせいなのか、あるいは長期間「外に向けて」書いてなかったせいなのか、よくわかんないんですけど。両方かも。

 俺にもしブロガーとして多くの人に読まれる資質があったんだとしたら、それは「おもしろいこと」を探すのが異様に得意だった、というのがあると思うんですよね。書かれるべきこと、価値のあることって、あたりまえですけど相対的なものです。ただ「自分にとって」だけは絶対的なものであって、俺はその絶対性に相対を持ち込むことがまずなかった。思い込み激しいという言いかたもありますが。

 その「おもしろいもの」を探す前提になっているのは、この世界への期待感なんですよね。どこかにはかならずおもしろいことがあるに違いない。それは猫が塀から落ちたのでもいいし、おっさんが道端でずっこけたのでもいい。「おもしろいものがあるに違いない」と思っていれば、それはかならずあるんです。これはトレーニングの一種だと思う。俺にはそれを発表する場があって、読む人がいた。だから俺はそれを続けられた。まあ書く人としての好循環だったんじゃないかなーと。

 こんなようなかたちで、また外に向かって文章を書くようになった理由のひとつとしてそれがあります。とにかくほっとくとどんどん内向的になっていくんですよ。どこかで歯止めかけないと、一言居士みたいなことになっちゃうんじゃないかなあと思って。なにがまずいって、ほかならぬ自分自身が「それでも別に、まあ」とか思いはじめてること。

 最終的に「おもしろがること」をやめた精神の行き着く場所は死で、まあそう遠くない将来に俺も死ぬでしょうから、それはそれでなんかの準備という気もしないんではないんですが、その過程でうつうつとしててもいいことないですからね。

 ちったー自分を、あるいはだれかを楽しませようと。まあそんなようなことを考えつつあるわけです。