欲望の形式

 参りました。完全に殺られました。

 いやー油断がありましたねー。なんていうのか、あのー人によって「本来のメディア」というのがあると思うんですよー。自分がいちばん楽に情報とか物語を摂取できるメディアっつーのが。俺の場合はそれテキストで、つまり小説なんですよね。マンガってどうにも読むのにちょっと力がいる部分があって、それはまあ歩くのに対して早歩き程度のことなんですけど、それでも敷居の高さみたいなのがあるんですよ。ほんと段差1段分だけど。でも年食ってくると、その1段分をわざわざ越えなきゃいけないっていう意識があんまりなくなってくる。ほら、世界に物語はあふれてるわけじゃないですか。だったら小説だけでも充分に死ぬまでに読みきれないはずのものがこの世にはあるはずで、そんで経験のおかげでセンサーは上がってるわけですよ。金だって若いころよりは自由になるわけですし。

 なのでまあ、マンガはあんまり数も読まないし、読んだって自分に深刻なダメージ与えるこたーないだろうと、そう思ってたわけなんですよね。

 食らった。食らったわ。青春のアフターまだひきずってるわ。

 この前の日記あたりで「嵐の夜」なんて言葉を使いましたけども、あれって自分の自我の構造がまだやわらかいからこそ打撃を受ける性質のものであって、ある程度年食って自分が固まって柔軟性を失ってくると、そうそう打撃なんか受けない、まして形なんか変化しないんですよね。さらにいうと、そういう経験って「すごくしんどい」「めんどくさい」ということがわかってる。こういうような経験を俺はよく「極彩色の地獄」とかそういうふうに表現してたんですけど。まあサイケデリックですよね。その世界ではあらゆるものがぎらぎらと輝いて、まばゆいばかりの光を発していて、それを見ることは楽しいことであるのに、同時に歪んでるんですよ。その歪みがきついわけです。ましてそれは現実じゃない。発狂しちゃえば楽なんだろうなあと思うんだけど、人間そうそう認知のレベルでかんたんにぶっ壊れることなんてできない。まして「狂おう」なんて意志があるうちは理性が勝ってます。

 でもまあ人間なんでなにが起きるかわからん。なんで「やばそう」と思う作品が目の前に出現したときには、とにかく理性の段階で受け止めて、客観的に処理して、それ以上自分の内側に入らないように制御する。そういう自分の操作が可能になるってのが加齢の現象としてひとつあると思うんですわ。

 青春のアフター、出だしからやばいことはもうはっきりしてて、ただ実況しながら読んでたし、なにより「人がやばいというものを興味本位で読んでみよう」くらいの感じで、なにも身構えてなかったんですよね。

 さらにまずいことに、あの作品って精読を要求するようにできてる。少なくともラストシーンに引っかからなければこんなことにはならなかったと思うんですよ。確かにさくらの境遇ってそれだけである種の人間の愛情を強引に引きずり出すようにできてはいるんですけど、でも終わってしまえば「それだけ」で終わるはずだったんです。あれが梅子につながってると、そうわかってから終わった。ループ構造ですやん。ループってことはこっちも作品の循環から抜け出せないってことですよ。

 まあそこらでね、作品と向き合う時間が長かった、必要以上にさくらに関わりすぎた。もう、こうなるとアウトです。

 

 さらに厄介だったのが、どうやら俺はキャラクター本体よりも「その扱われかた」みたいなのに反応するタイプの人間だったらしいってことです。この作品におけるさくらって、さくら本体というより「妄執の結晶」みたいな側面ってかなり大きいと思うんですよ。このへん作者の腕ただごとじゃねえなあと思うんですけど、描き分けがきっちりなされてるんですよね。それこそ「16年間、恋の蜜を吸い続けた」さくらと、本体としてのさくらと。その片思いという名の呪いみたいな構造がもうだめなんですよね。勝てない。まあこんなのは人によるんでしょうけども、人は「自分の欲望の形式」と合致したものを提示されたときに、あんがい簡単に殺られるのかもしれません。まあこれは、こういうことに限らずですね。本来その人のなかにある「かくあれかし」に合致するような思想、論説なんかを与えられたときに、いともたやすく同調してしまう。そういうことはありそうな話です。

 なにはともあれ「いま、さくらどうしてるかな」とかそういうこと考えはじめるともう末期症状です。しばらく抜けないです。早いとこなんらかの手段で解毒しないと死ぬ。ここまでひどいのはガハマさん以来か、あるいはひょっとしたら大河以来かもしれぬ。

 考えてみると、大河のときも自分のなんらかの思考や願望の形式と合致しちゃったってのがたぶんあるんだよなあ……。やだなあ。