なにか別のやりかた

 まだ「青春のアフター」読んでます。これほどまでに粘着質に読んだ作品はほんとうにひさしぶりで、これの前となるとたぶん「少女公団アパートメント」なんじゃないかな……。

 いまさっきまでまた通読してたんですけども、これ徹底的に納得の行かない話で。いや、物語的にはきれいにエンドマーク打ってますし、作品の構造ということでは芸術としか言いようがないものなんですけども、それでも俺はこれに納得がいかない。むしろ納得しないことで自分という人間が始まってるんじゃないかという思いがありまして。

 まあ古い話で恐縮なんですけども「AIR」っていう作品がその昔ありましてね、この作品に関してはもうどんくらいテキスト書いたかわかんないくらい語り倒しまして、いまでもたまに思い出したように語りだすことがあります。あの作品をやったことで俺の人生が変わったとかそういうことは別にないんですが、少なくともオタである、俺が考えるところのオタである自分は終わってしまったという感じがあります。

 なんかこう、この話っていまこのブログ読んでる人のなかには知ってる人もいそうなんで、いまさら書くのもアレかなーという感じがあるのですが、まあ知らない人が書くという前提で書いてみますわ。

 あの作品から俺が受け止めたものは、家族がどうとかゴールがどうとかそういう話ではまったくないです。あの作品は俺にとっては「なにをどうやっても観鈴ちんは死んでいく」ということです。あれってもう本人の意志とか無関係に「構造的に」観鈴ちんに理不尽な死を与える物語なんですよ。理不尽にかわいそうっていうのは、俺みたいなかわいそうな女の子好きにとって最良のものでありまして、つまり「いくらでも愛情を注ぎ込める器」ということなんですよね。AIRの前はエヴァの綾波でしたけど。

 あくまで俺個人の話なんですけども、人間関係のほとんどすべてが途絶してるような状況で、人が願うのは「愛されたい」ということではないんですよ。愛されるもなにも人間なんか恐ろしくてしかたないわけで、そういう「恐れる自分」が醜いものであり、人に受け入れられる資格のまったくないものだというのは重々自覚してるわけですから。だからそれは静かな受容、まあ諦めみたいなもんですね。理屈で説明がつくし、まあメシ食ってる限り死なないので、とにかく生きてるわけですよ。

 ただ「愛したい」のほうは、これはもう対象がないのでどうにもならない。それゆえ俺には「フィクション」というものが必要だった。幸せなエンディングでさえあれば「よかった」と、祝福することができる。俺が現在でも「祈り」とか「祝福」みたいな概念に極端に涙腺殺られがちなのは、あの作品に至るまでにさんざんいろんなキャラクターに対してそういうものを願いつづけていたからです。

 そこ行くとあのAIRって作品はほんとひどいっすね。俺が、俺が観鈴ちんだとまでは言いませんけども、なにをどうやったってうまくいかないというところに自己投影することは充分に可能なんですけども、その自己投影を全否定するくらい作中の観鈴ちんはかわいい(俺ヴィジョン)。「だからこそ」無限の愛情を注げるという側面はあるわけなんですが、これがまあ、死んじゃうわけですよ。たとえ最後になに掴もうとも。

 そこからですよね。俺がフィクションと距離取るようになったのは。必然的にそうなってしまった、というのが正解なんでしょうが。「愛する」というのはアクションです。アクションにはそれを受けるものがあってリアクションが必要である。そんなあたりまえのことにそのときようやく気づいたというわけです。

「それはただの絵だ!」

 そのとおり。俺は29年かけてそのことを学習しました。

 しかしだからといって、すべてが清算されるわけでもない。ずいぶんと立ち直ってからのことですけども、俺は思いましたよ。ならば俺が「観鈴ちんのようなものが幸福になる、別のやりかたを考えてやる」と。

 それを物語のかたちで実現することは、ちょっと能力が足りなかったのでできなかったわけなんですが、俺にはいまでもなんとはなしに、その「別のやりかた」に対する執着がある。世界の終わりの小部屋のようなものがあって、そこでは閉じた関係性が静かに営まれている。そのままで十全たる幸福を得られるようなそんな物語。そのままで世界に対して強靭な説得力を維持できるような、新しい物語。自分がそれを実現できなかったからこそ、そうしたものを求める俺の欲望は強いといえるかもしんないです。

 まあ「青春アフター」の場合、作家は最初から「それでも生きていくしかない」みたいな部分に焦点あててるんで、あの結論はそれはそれで正解なんですよ。俺はおっさんなので、とうぜんその結論はわかるんです。わかるんですが、それでも俺の内部のどこかが訴えてるんですよね。なんでさくらじゃだめなんだ。それを実行できる強さを持て。さくらかわいいじゃないか。それでいいじゃないか。

 というわけで、そもそもの思想の時点で俺はこの作品と真っ向からブチ当たってるわけなので、これは読者として俺が悪いというほかないんですが、にもかかわらず欲望の形式はそっくり俺のものをそのままなぞってるからタチ悪いです。俺はあそこまで崩れるほど弱くはなく、かつ理性は感情を抑えきると、そういう信仰を抱き、さらにそれを実践するくらいに、他人との接点を少なくすることに成功した側の人間です。だからこそ、妄執をそのまま自分の内部に温存することに成功(ふつうに考えれば失敗)したともいえます。

 じゃあさくらを幸せにする妄想、となると、これは作品の構造が美しすぎて手がつけられません。

 考えてみりゃAIRのときもそうだったよなあ……あっちは構造もなにもなく、いや、実際は明確にあるんですけども、そういうこと以上に力技だったし、その力技のまま駆け抜けきったという点が異常だった。

 どっちにしろ、俺はこういう物語に囚われがちだという点では、現在もあまり変わっていないということがよくわかります。まさかこの年になってひとつの作品についていつまでも語り続けるとは思わなかったよ……。