長い遺言としてのブログ

 これ前にこの内容で書いたんですけど、過去ログ全部消しちゃったので、もう一度書いておこうと思います。ほんとはシロクマせんせの新作読んで、その対比で書いたほうがおもしろくなりそうなんだけど、とりあえず気が向いたんでいま書きます。

 

 なんかねー、やれるだけのことはみんなやってきた気がするんですよ。仕事はまあ、そこそこうまく行ってるし、この先よほどのおもしろ事態でもない限りはコケないと思います。なにしろこの年齢なもんだから、自分のやってる仕事の範囲では「うまくやる」というところまで含めてルーチンに入っちゃってる。なんか仕事も、特に自営業となると、うまくやる方程式みたいなのあるんですよね。

 そんでまあ、文章書く人としてもご存知の方はご存知のように、そこそこは成功したほうじゃないかと思います。でもあれ、最後のほうは実はけっこうきつくて、書くモチベーションって特になかったんですよね。でもまあ勘所みたいなのはわかってたんで、続けられるのは続けられましたけど、まあ最後はあんなオチで。でもそれがなくても、ある日発作的にやめてたんじゃないかなーという気はかなりします。

 それで、そのあと気づいたんですよね。あれ、俺もうやりたいことって別にないんじゃね?って。おそらくここのところを更新できていく人が、さらに楽しく生きてける人だと思うんですけど、俺もともと昔から最終的な目標は「死にたいと思わないで生きること」だったんですよね。んで、それは40歳くらいのころに達成されちゃった。そこがスタートでしょうって話なんですけど、別に名声が欲しいわけでもなく、金はまあ、ありゃあるほどいいですけど、ふつうに生活していくくらいはできる。あとは死ぬまで生きるだけって感覚が強くなって、そこから先はもう余生じゃないかなーと思えるようになってきたんです。

 まあこれには、うちの家系とにかく男が早死にで、あんま長生きできないんだろうなあってのもあったんですけどね。どれくらい早死にかっつーと、あと数年で、ここ3代くらいじゃ俺がいちばん長生き、というくらいの。いやもう、みんな50前に死ぬんすわ。なので、最初からそこをゴールとして設定してたってのもあります。

 俺にとって「文章を書く」という行為は、自分の生きづらさをどうにかして軽減するためのツールでした。なのでこれも呼吸が楽になった時点で必要なくなってるんですよね。実際、ここ数年は習慣的にまとまった文章書くってことをほとんどしなくなってた。

 そしたらねー、なんか頭使わなくなってきてたんですよ。考える、という行為を放棄しそうになってた。

 それじゃいかんだろうと。肉体が衰えるのは、まあ筋トレとか方法はあるでしょうけども、やれることに限界はある。じゃあ頭は? けっこうがんばれば長持ちすんじゃねーの? なにより考えることをやめたら退屈になるでしょ?

 というようなわけで、ふたたびこのフィールドに戻ってきたわけです。ほら文章って「読まれる前提」で書くかどうかでずいぶん違うものになってくるから。

 なんでまー、このブログの位置づけはタイトルのようになりました。遺言っつっても別に俺の言葉をだれかに残したいとかそういうご大層なことは考えてません。ただ日々考えたことを書き残しておくだけです。そんで俺が死んだときには、インターネットのどこかでひそかに葬式とかやってくれると嬉しいなあと。まあそんくらいの感じですかね。俺の交友関係はほぼネットに限定されていて、それもリアルで会わない人がほとんどです。じゃあ俺が死んでもリアルの葬式とか来てくれても別に嬉しくないじゃん。だったらネット葬式だよねー、と。

 ま、それが47歳の俺が現在考えるところの書く意味ですね。はい。