荒木なんちゃらさん

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 読んでた。大元になった文章は流し読み程度なんだけど、読んだときになぜだか知らんけど、なんの違和感もなかった。「あーやっぱなんかそういう人なんだろうなあ」みたいな納得があった。どうでもいいけど冒頭にこういう感じのリンク入るとなんかブログっぽい。はてなブログすごい。

 荒木なんちゃらさんって人の写真は、雑誌で見かけたのと、あとなんかの理由で写真集をちょっと見たことがある程度なんだけど、どうにも、肌にあわないというか、あえていうなら「生理的に無理」って言葉がいちばんしっくり来る。

 そういえば前に自伝っぽいような文章も読んだことがあるな。自分のこと「スナップ写真の天才」みたいなこと言ってた。俺は映像芸術全般に関して壊滅的に見る能力がない人間(視覚を通じてなにかを把握する、というようなのが苦手)なんだけど、そんな俺でも「わーこれうめー」って素直に思えるような写真が多かったような気がする。

 ただ、女性を写した写真、特に雑誌に載ってるようなやつはほんとうに苦手で、この苦手さってなんに由来してんだろーって思ってたんだけど、リンク先の文章読んでるうちになんとなくわかったことがある。

 俺はそもそも「作品には作者が存在してほしくない」人間なのである。音楽でも小説でもなんでも「作った人間とかいないほうがいい」。小説でもあとがきはまったく読まない。なんでかっていうと、俺は「小説」という異世界を経験しているのであって、それを作った人間がいるというのは、あんまり喜ばしいことではない。なんていうんだろ、純度が下がるっていうか「俺の脳内に築いた王国を邪魔すんな」って感じ。エクスキューズになってるのは「俺はそれを買った」ということで、買った以上どう消費しようと俺の自由だみたいな部分。音楽でも同様っつーかもっと極端で、好きなのは曲であって、作った人間は名前とか知らなくてもまったくかまわない(現実的には知ってたほうが探す効率がいいのである程度は知ってる)。

 自分の姿勢がわりと極端なのは自覚している。つーか気がついたらこうなってたんでどうしようもない。

 で、記憶が曖昧になってたんで、もう一度画像検索で荒木なんちゃらさんの写真とやらを眺めてみたんだけど、ああこりゃ俺苦手なわけだってなった。

 というのは、どの写真見ても「撮ってる人の存在感」が異常に大きいからだ。あくまで「写真とかよくわからない人間」の感じかたですよ? ただどう見ても俺はそう感じざるを得ない。これは俺ととても相性が悪い。

 俺みたいな人間は、なにげなくそのへん歩いてても、風景に対して勝手に情緒みたいなのを与えることがある。コンクリートのひび割れでも、家と家の隙間の微妙な空間でもなんでもいい、なんならそのへんのゴミ捨て場でもいいのだが、そういうものを見たときに、瞬間的に「情景」みたいなものを感じることがある。俺はこういうのを「物語化」と呼んでるわけなんだが、荒木なんちゃらさんの写真は、こうした精神の動きを厳しく封じ込めるのが多いような気がする。撮影する人の意志というか、なんなら撮影する人そのものが見える気がする。そして俺は荒木なんちゃらさんという人にはまったく興味がないわけなので、俺を見ろといわれても困る。

 しかし考えてみれば、俺のような妄想体質の人間ですらも完全に拒絶するくらいに、物語化を拒む写真というのは、それはそれで特殊である気がする。

 以上、写真というものを芸術として見たことがほとんどない人間の言うことなので、あまりあてにはなりません。ひょっとしたら写真家が女性の写真を撮ると、だいたいそういう傾向が出てくるのかもしれないし。いやでもなあ、あれほど強いもんなのか?