風化していく空気

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 これなー、なんかおもしろいと思った。

 まあコメント欄に俺の言いたいことも出てたんで、とりたてて書く必要はないんだけど、おもしろいなと思ったということで。

 これが男尊女卑の感覚に結びつかない人のために説明しておくと、少なくとも1980年代くらいまでは「一家の大黒柱は厨房に入るとかありえない」「家事は完全に女の仕事」であり「おーいお茶」と呼びかけるのは、一家の大黒柱たる夫の代名詞的なセリフでもあったということです。1970年代くらいまでなら「おーいお茶」という単語を聞いたら、ほとんどは「亭主がよくいうセリフ」としてだれもが共有可能であったということです。それがあったからこそ、伊藤園はその代名詞的なセリフを商品名にし「家庭で出てくるお茶」をイメージさせる戦略を取ったということですね。

 で、ここで「これが男尊女卑に結びつくやつは、自身が男尊女卑の差別主義者」という人たちが出てくるわけですが、これにはいくつかの意味が含まれていると思います。ひとつは、お茶は家庭で女がいれるもの、という前提がまったく共有されていないということ。だからこそ「え、こんなとこに男女差別見出すの?」という感覚になります。

 もうひとつは、この「これを男尊女卑に結びつけるやつはおかしい」という考えかたそのものが差別を内包してるってことです。時代にはいつでもその時代なりの常識や要請というものがあって、それはただ変化するのみです。あのときはああであったが、いまはこうである、というだけの話。その変化がよいものであるか悪いものであるかはまったく別の問題です。まあこの場合の変化はいいに決まってるんですが、かといって、いつまでもこの状況が「いい」とされるわけではない。「これが正しくて、あれがまちがってる」というのは、それ自体が差別の温床だと思う。なお俺自身はかなり病的な男女同権主義者です。性別を問われる必然性がない場では、性別というものは無意味であると判断するタイプです。相手が男であろうが女であろうが、そんなものは人差し指と薬指どっちが長いか程度の意味しかないということです。なので、この変化は歓迎しています。

 

 で、これだけならわざわざエントリ書かないんですけど、最近わりと「こうやって歴史は変わっていくんだなあ」というようなことを思うことが増えたんですよね。そう思ったのは、このあいだ「宮崎勤事件でオタクが迫害されたという偽史」みたいなのを見かけたからです。俺は当事者だったので、あの差別的空気がいかに苛烈であったか、特に家庭のなかにその空気が入り込んで「おまえは宮崎勤のようにならないでくれ」と言われた人がかなりいたという事実を記憶しています。しかしこうした時代の空気みたいなものって、なんだか紛れていってしまうものなんですよね。というのは、決定的な歴史的事実と違って、個人によって感じかたに違いがあるから。オタク差別にしても「オタクであることによって、渋谷のスクランブル交差点の中心で火炙りにされた」みたいな歴史的事実があれば話は別なんでしょうが、刑事事件になるほどの象徴的な事件というのは別になかったはずで(と思う)、だとしたら当事者が「あのときはああだったんだ」といくら言ったところで、それは風化していく。

 なるほど、こうやって時代ってのは変わっていくんだなあと、まあそんなようなことを思ったわけです。だいたい四半世紀ってとこなんでしょうねえ、こうしたものが風化していくのって。

 そんだけ生きたんだよなーというようなことを思いました。はい。オチはないです。