例外

 5月は「君と目覚める幾つかの方法」であり、6月は「Summer Pockets」となるわけです。君と目覚めるなんちゃらは非常に楽しみにしております。

 

 でまあサマポケなんですが。

 体験版やった限りでは、原案といいつつ麻枝准の個性はかなり強く出てるような印象でした。もっともライターさんの個性をあまり知らないのでなんともいえないんですが、選択肢と極端なセンテンスの短さ、特に会話の短さには色がよく出てたように思います。作中を覆う空気感についてはいわずもがな。

 もともと俺は、宗教じみた情熱で「だれがつくったかはいっさい考慮しない」という姿勢を貫いています。このへんはまあ、ちょっと尋常じゃないこだわりがあってコンパクトに説明するのが難しいです。

 ひとつには、俺にとって物語っていうのは記憶になった時点で「現実」なんです。子供のころからわりとそう。俺には原則的に友だちとか恋人とかが存在しなかったし、家族は早々に捨てられたか、あるいは捨てたかのいずれかで、なつかしく思うような人間というのが存在しません。俺にとって、その場所にあるものはいつでも「物語」でした。なので俺のなかには一貫して「だれかがそれをつくった」という事実を否定したいという強い衝動がうごめいています。さすがに見ているとき、読んでいるときは「それはただの紙だ」という事実は理解してるんですが、過去になってしまえば「失った」という時点で、それは現実にあったことと同じです。現実であるかどうかは俺にとっては大した問題ではない。俺にとっては作品を「作品」として対象化するのはかなり難しい行為です。

 あとは先入観の問題ですね。スタッフや作者がわかっていれば、ある程度の予測はついちゃう。この年齢になって読む能力がある程度はついてくるとよけいにそうで、だから作り手についての知識そのものが積極的に必要ないんです。これは反面で、系統だった消費ができないという読み手としての俺の一大弱点でもあるんですが、それでも俺は「はじめて出会う世界」については、なんの予備知識も持ちたくないです。

 

 しかしなにごとにも例外というものがあって、俺にとっては麻枝准という作り手がそうです。大きな理由は、俺が「AIR」という作品を記憶にしそこねたことです。死んだということは、ある意味で作品が終わらないということを意味します。それは呪いと似ている。「あれ」を作った人間なんだという意識がどうしてもはたらいてしまう。作り手に興味を持たないということでは、これが元来の自分の傾向なのか、あるいは努力してそうなったのか、もはや自分でもわからない場所にいるんですけども、この作り手だけは「そうか、おまえか。おまえがあれを作ったのか」と、本人を前にして言いたいような気分があるわけです。それが一般的な作り手に対する態度なのかどうかは俺にはよくわからないです。

 自分が長年にわたって抱えていた、言語以前の漠然とした不安、孤独、美しさ、そうしたものを言語化した人間がいるという意味で、この作り手にはなんともいえない複雑な感情を抱きがちです。

 まあそういうわけで、そういう作り手が、いったんは自分が死に近づいたうえで、どんな「夏」をつくってくるのかという点で興味というか、おそれのようなものがあります。「いっそおもしろいだけのふつうの作品であってほしい」というのは、俺のそのおそれのようなものが書かせた文章だと思います。

 6月末ですか。まあ座して待つほかありません。