いつまで考えつづけられるか

 人間はいつまで思考をアップデートできるんだろうみたいな呟きが見えまして、それについていろいろ考えてしまったので書いてみようと思いますん。まあたぶん元の発言の意図とは食い違ってると思うんだけど。

 

 たとえば俺がいまこのほぼ50歳っていう年齢から大学受験をめざしたとしますわね。するとどうなるか。

 たぶん理解力は確実に上がってる。数学は現役の学生のころ死ぬほど苦手でしたけど、いまなら段階踏んで学習すれば、それ以上の効率を出せる自信はある。ほかの教科に関しても同様で「体系を理解する」ということであれば、効率は若いころの比じゃないです。たぶんなー。

 しかし、暗記系の教科はいうまでもなく壊滅。これは脳みそのスペックの問題です。なんでまあ、たとえ理解が及んだとしても古文漢文あたりは怪しいってことになってきます。英語も同様ですね。長文読解力みたいなのはがんばれば上がるにせよ、単純に単語の知識を問われた場合は、たぶんやばい。

 さらに受験勉強を続けられる時間ですね。この集中力が格段に落ちてると思う。この集中力の落ちかたっていうのも、単純に肉体的な問題。

 

 というような傾向があると思うんですな。

 この世界には人間が大量にいて、それぞれが勝手な思惑で動くんですけども、しょせんは人間という動物がやってることなのでなんらかの法則性はある。とはいえ、それはあまりに多様で複雑なので、全体を把握するにはなんらかの体系が必要なわけです。そしてその体系というのは、十も二十も使いこなせるようなもんじゃない。さらに時代によっては変化する。新しい枠組、思想のツールってのがいくらでも出てくるわけです。それをフォローしていくのは、俺は年食ってもそんなに難しいことじゃないと思うんですよね。完全に謎なくらいに新しい体系っていうのはそうは出現しなくて「ここをいじってみました」くらいのがせいぜいだと思うから。そして年を食っても、その体系の全体像を大づかみに把握するのはそんなに難しいことじゃない。ベースとなる知識があって、その応用ですんで。

 なんでまあ、自分がなにかを盲信していないか、悪い意味での宗教を奉じてないか。そうして自分を疑いつづけていく限りは、そうそう簡単に新しいものが理解できなくなることはない。

 問題は深さのほうなんですが、これは「わかった」と思った時点で試合終了みたいな部分ありますんで、どれだけ未知に対して謙虚であれるかだと思うんです。謙虚ってわりと俺の嫌いな言葉なんですが、少なくとも疑問はそこらじゅうに転がってるし、細分化していくときりがない。しかも「考える」という行為のおもしろいところは、細分化して切り刻んだ先がかならずしも行き止まりというわけではなく、袋小路に見えた先に広大な土地が広がっていたりすることです。「わかった」という傲慢はすべての動きを停止させる。なんでまあ、やっぱり謙虚さというほかないんですが、これわりとしんどい作業ですからね。自覚的に自分や世界を疑ってないと、どこかでは運動が停止してしまう可能性は高いです。

 

 ただそれ以上に手強いのが肉体の劣化。これはもう痛感するところです。考えるための材料となるものは、現在のところ本くらいしか入手方法がない。経験から学ぶっつっても、この年になるとそうそう新しいとこに出てく気力も体力もないです。自覚的に求めるとなったら、必要なのは体力ですわ。あと記憶力な。

 そしてツールとしての知識だって、目から入力される。本を読み続けるにも体が固まったり痛くなったりする。社会人である時間的制約ってのを考えないにしても、単純に知識を仕入れる効率ってのが落ちるわけですわ。なんでまあ、おっさんになる前に専門化を終えてるかどうかはけっこう重要でしょうね。

 

 そういやつい最近、秋山瑞人の文章ってわけわからん、どうやったらあんなもん書けるんだ、みたいなツイートが回ってきてまして、俺このへんに関しては以前から持論があるんですよね。つい最近日記で書いたかもしれないけど、仮に300年間学習しつづけたら、人間はたいていの天才に追いつける。それでも秋山瑞人みたいな人は理解不能なんですけど、それはさておいて、年食おうがなにしようが、要するに効率が落ちるだけですわ。落ちた効率を上げるためのチート技を考えるのもそのぶんうまくなってくる。とはいえ、絶対的な効率はどうしようもない。

 どうしようもないけど、原理的に不可能ではない。この点においては、残り時間なんか、考えてもしゃーないんですよね。知りたくなったら知るし、やりたくなったらやるし、要はそれがおもしろいかつまんないか。つまんないと思ったら、それはもうやりたいことじゃないってことです。