天体のメソッド10話まで

 俺ほんらいはこういう話とあんまり相性よくないんですよね。基本的に「仲間」というものがよくわからない。「みんななかよくにっこり」というのが頻繁に出てきますけども、これほんとに意味わかんないんですよ。たいていこういうテーマの話って、アレルギー出てきてうんこ漏れそうになる。

 でもこの作品に関しては、そういうのぜんぜん出ないんですよね。

 中学生とか高校生くらいの群像劇っていうことで、比較の対象として凪あすとかあの夏とか、まあそのへんを思い出すわけです。でもあれらの作品とこの作品は決定的に違う。この話は「おとぎ話」なんです。

 というところまでは思いついたんですけど、この「おとぎ話」という定義は俺が勝手に決めたものであって、今度はその定義がうまく説明できない。

 それはなんだろうって考えながら見てて、10話を見終えるころにようやく気がついたので、ブログ書きに来ました。

 

 実に単純な話で、中学生や高校生の群像劇の場合「変わっていくしかない」というのは、規定事実なんですよね。つーか現実だから。変わってどうなるのか、どこに行くのかは知りませんが、まあ時間は動いてるんで、とにかくどこかには行くしかないわけです。その通過点である性質こそが、この年代を扱った群像劇の存在意義のひとつでしょうし。

 それはそれで見てる俺は殺されたりするわけなんですけど、でもふと思うんですよね。そりゃそうでしょうと。変わるしかない、そうあるしかない。そんなことはわかってんですよ。わかってんだから、いまさらそんなもん見せつけんなって話。

 このお話では「みんななかよくにっこり」というのは、単純に願いであり、祈りであるわけです。それがかなったらハッピーエンドなんです。お話の構造上、そうなってる。ノエルの存在がそれを補強する。そうしたおとぎ話を作り上げるために、妥協のない設定を積み重ねる、こういうやりかたが俺はたまらなく好きなんですよね。

 なんだろ、願いがかなうっていうのは、人の時間において、一瞬の隙間みたいなもんなんですよ。なにしろ時間は流れていくので。その隙間を極大化して結晶化させたような物語が大好きなのです。そういうものを俺は「おとぎ話」と定義していて、きっと、連綿とそういう物語を愛してきたのだと思います。