キャラのリアリティ

 ラブシックなんちゃらってエロゲやってて、エロゲ本体とは関係ないことをふと思いまして、キャラのリアリティってものについてですね。

 おっさんなのでたとえが古いんですが、俺は麻枝キャラと久弥キャラだと後者に強いリアリティを感じるタイプです。といっても、お若い方には話が通じないと思うので、もうちょっとまともに書いてみます。

 そもそもが俺自身、キャラってものに対する扱いが変化してきてるのを感じるんですよね。単純にいうと、昔は「人間」を求めるために作品を消費してたんだけど、いまは作品のなかに人間がいるっていう違いがあるんです。

 なにかっていうと、飢えですよね。昔は圧倒的な飢えがあった。その飢えっていうのはちょっと説明が難しいんですけども……うーん、なんだろ、早い話、ふつうの人が持ってるような人間関係のほとんどを持ってなかったんですよね。その持ってなかった程度って、ちょっと珍しいくらいだと思うんですけど、そこを説明するだけの熱意はもうないので、そういう客観的な状況としてはすごく孤独な人間がいたと思ってください。

 で、その孤独な人は、慣れなのかもともとそういう人なのか孤独耐性は高くて、まあ孤独であることじたいでは死ぬことはなかった。ただ同時に自分には人間が必要らしいっていうことは理解してたんだけど、自分のほうには他人から人間として扱われる資格がないと思いこんでいた。つまり「自分なんかが他人を求めるなど図々しいにもほどがある」という感じです。

 なので、人間が必要だとわかっていても、現実でそれを求めることは「許されていない」という感覚が強かった。もちろん自己保身とかさまざまな要素はあったんでしょうし、結局のところトライアンドエラーで覚える技術体系だよね、みたいな話もあるんで、要は勇気がないんでしょ系の話だったかもしれません。しかしその渦中にある人にはそんなことはわからない。うすうす自覚してはいても、自分には慣れ親しんだフィクションの世界があるんで「とりあえず」はどうにかなるんですよ。

 こういう心境で触れるフィクションの世界のことを俺は「極彩色の地獄」と呼んでいました。現実で何重にも防壁を作ってる関係上で、フィクションに触れるときには粘膜に接触してるような強い刺激があるわけです。快楽も苦痛も何倍にも増幅される。あれですよ。サイケデリック。

 そういう世界観で求める「人間」って、ふつうの人間であってはならないような感じがあって。リアリティの表現方法って、そりゃいろいろあると思うんですけど、俺にとっては「どこにでもいそう」とか「いかにもそういうことしそう」っていうのはほとんど響かなかった。自分の周囲にいる人間が怖くてしかたないわけなので。なにより関係性の網の目に浮かんでるような人間がいちばんだめです。それは自分の理解できないものなので。だから「ひとりでも生きていく」「生きていかなければならない」というキャラに強烈なリアリティを感じる傾向があったような気がします。そして同時に、それは自分にとっての救いでもあり、妬みでもあり、どうかすると信仰でもあったわけです。俺の信じる人間性に対する信仰みたいな感じですかね。となるとキャラクターは単なる人間であると同時に自分の願いでもあったりするので「ここにいてほしい」と強く思うようになる。

 んでまあ、俺もいいかげん50歳近くなってきました。さすがにこの年齢になってくると「人間だいたいこんなもん」っていう見切りがついてくる。そうすると、だいたいどんな作品のどんなキャラでも「まあこういう人間」とふつうに把握できるようになってくる。存在するしないでいえば、昔の名残もあって絶対的には存在すると考えることができるので、まあそうしたらふつうに「人間」以外のなにものでもないですよね。これはこれでなかなか楽しいと思います。

 まあ同時に俺は、信仰を失ってしまったということもできるわけです。

 

 というところでこの文章はおしまいなんですけど、いまふと気づいた。

 俺がとらドラ!の大河にあれだけ殺されたのって、俺が信仰という形式で自分の外側に置いてあった戦いみたいなものに真正面から大河がぶち当たってたからじゃないかなーと。こうなるとまあ、憧れも妬みも両方極値になりますね。

 いつかはとらドラ!読み返すんじゃないかなーという気がしてるんですけど、どうなんだろうな、50歳近くになった俺は、あの物語をどう読むんだろうなあ……。