かっこわるいと思うこと

 さて、まだ加齢話が続くのである。周囲に興味なくなったら自分くらいしか興味の対象ないんだから自分についてしか語ることないだろ。集えおっさんども。

 さっそくですが老化していくわけです。

 ちょっとツイッターに書いたんだかブログに書いたんだかもう曖昧になってきてるので、重複してても知らねえやくらいの勢いで続けますが、最近とにかく「なにもする気がしない」という状態が多くて、ああこれつまり老化なんだなー、だんだんこうやってなんもする気がしない時間が増えてって、そのうちにはぼーっとテレビ見てほかなんもしねえ老人に類似したなにかになるんだろうなーと思ったんすよね。

 あと最近は、けっこうぐるぐるとブログを読んでまわったりしてるんですけど、ああこれはいただけねーなーと思うようなものがあって、そのへんでもちょっと考えたりしたんですけど。あのーあれです、若いふりをしようとがんばってるやつが非常につらい。

 それとこのあいだふとした瞬間に「後楽園球場」という単語が口をついて出まして、うちの奥さまに「おまえの巨人の本拠地はいつ時間を止めたんだ」って言われまして、まあ俺は野球興味ないですし、興味のない分野に関しては「それを知った時点」で時間が止まるんすよね。たとえば俺が子供のころ、特に雪に関連した話をすると、子供のころの訛りがそのまま再現されるように。それはもう生きてる限り不可避のことなんですよ。自分の知識のうち、30年前からアップデートされてないものなんて、生きてりゃとうぜん発生すんですから。

 

 というようなことを考えてるうちに、じゃあ俺はどうやって加齢して老化していずれ死ぬんだよみたいなことを思ったわけですね。そして俺は基本的に書く動物みたいないきものなので、指が動いてキーボード叩けるうちはなんか書いてるだろうし、なんならキーボード打てなくなったころには音声認識の性能が向上してて、それでもなんか書いてるかもしれない。

 しかしですね、書いて公表するっていうのは、自分の姿を晒しつづけるということでもあるわけです。ことに俺は自分のことについてたくさん書くので。基本的にはごはん食べたらうんこ出ました式で垂れ流しで文章書く人なんですけど、同じうんこするにあたっても、和式便所でするのか、逆立ちするのが、なんかすごい回転しながら螺旋状にうんこを撒き散らすのか、まあいろんなスタイルが考えられるわけで、そのスタイルというものを選択すんのは自分ですよ。基本的に「こうありたい」「こう思われたい」という願望の流出って不可避なわけで、だとしたらそこにはなんか美学みたいなの必要なんじゃないの、と思ったわけです。

 といっても、俺実はあんまり「こうありたい」とか考えない人間なので、逆にこれだけはいやだなあと思うようなことを羅列してけばいいんじゃないかなと思いました。なので羅列します。

 

・自分に嘘をつく

 これはだめです。文章書いてる意味そのものがなくなるので。自分のことじゃなければ嘘ついても別にどうでもいいと思うんですけど、自分の信じてないこと書いたり、自分の心あたりのないことをあるかのように書いたり、そういうのはすごいかっこわるいです。

 

・なんか阿る

 これもいやだ。「若いふりする」なんていうのもこれに入ります。理解できるふりとかもだめ。なぜそれがだめかっていうと、それは自分の感覚よりも別のだれか、なにかの感覚のほうが優れていると認めることだからです。実際は優れているもなにもなくて、自分はいまここにいて、自分の見える範囲のものしかわからんし、仮に理解すべく努力したとしても、その努力が自分にとって意味あることじゃなきゃ、それこそなんの意味もないです。考える、書くというのは、いまこの瞬間、自分の中心から始まってることで、彼我の距離を測定するようなことはあったとしても、自分以外のすべてのことは環境でしかない、ということです。

 もちろんこれはその人の考える方式によるので、俺個人はあくまでそうだっていうだけです。

 

・なつかしむ

 これは大嫌い。自分に関する限り、積極的に否定したい。なんだろ、たとえば俺がことあるごとにAIRとかに言及するように、自分を揺り動かしたコンテンツについて繰り返し語るのとかは自分的にもぜんぜんアリなんです。ていうのは、なにしろ自分に衝撃与えたんだから。課題であり呪いなんだから。たとえ人から見てそれが「あのおっさんあそこで止まってるよね」といわれても、それは別にどうでもいいです。あくまで自分にとっての話なので。

 だけど「あのころはよかった」に類似する感情だけは、これを肯定することは自分のプライドが許しません。そのプライドの根源がなんであるかはよくわかんない。推測するなら俺は「人間なんてだいたいそんなもん」であり「いつの時代もそんなに変わるもんじゃねえ」という信仰を持ってるので、その信仰との絡みかもしれないです。変化していくのはおもしろいことであり、そのおもしろさについてフラットでいたいと願うのならば、ある作品、ある時期を神聖化することは、その妨げになるのでだめです。

 まあもっと単純に、コンテンツ消費者としての引退を意味してるからってだけの話かもしれないんですが。

 もっとも、これについては「いつかはなつかしむだけで過ごすようになる」という漠然とした予感はあったりするんですが、それってたぶん余命何年とか、生命の終わりがきっちり見えてきてからで充分だと思うんですよね。

 かたちはどうあれ、俺がおもしろがれるコンテンツは永久に供給されるはずだし、供給される限りは食ってりゃいいんすよ。おいしいんだから。

 

・自分の書きたくないものを書く

 まあどことなくここまでの文章とかぶってる気はするんですけど、これは体質的に無理だし、たぶんそれをした瞬間、文章を書く人間としての俺は死にます。たとえその文章の内部にどれだけ「俺」が充満していようとも、全体としてそれが俺にとって書く必然性のない文章だったら、まったく意味はないです。

 

 俺にはとにかく「すごいと思われたい」とか「えらくなりたい」みたいな感覚が欠落していて、これは俺の一大弱点なんですけども、同時に「自分が思うところのかっこわるいことをしたくない」という気分が異常なまでに強い。人からどう思われるかじゃないんです。てゆうかそれわりとどうでもいいです。うちの奥さまにもよく言われるんですけど、俺にはまったく無根拠な自信みたいなのがあって、ことに文章という領域に関してそれはかなりひどいんですが、その無根拠な自信のひとつの根拠が「自分がかっこわるいと思うことをしてこなかった」っていうあたりにあるんじゃないかなーと。

 そりゃ仕事では下げたくない頭も下げるし、妥協だってしますけど、エディタのこの領域では俺は万能であって、それは白紙のものゼロから自分でテキストを入力してるんだからあたりまえのことであって、その万能感だけは失いたくないってことなんじゃないかなと思いました。

 たびたび引き合いに出すんですけど、その昔に阿川弘之が死ぬ間際に書いた短い文章に、便意もよおして便所に行こうとしたけどまにあわなくて途中でうんこ漏らしたっていうのがあるんですよ。90歳だかなんだかのときの文章なのかな、ちょっと記憶してないんですけど。

 まあそんだけの老人がうんこ漏らしたってそりゃしょうがないよなあと思うわけなんですが、その年齢になってなお頑強な知性が、勝手に衰えていく肉体をまるで他人のものであるかのように凝視していて、その視線の冷徹さ、そのことを書いて公表できるという神経の図太さ、そういうものがすごいなあと思うんです。

 俺は現在までのところ、成人してからうんこ漏らしたことはないので、増田に報告する必要も別にないんですが、死んでいくその瞬間まで「ああ、これが死ぬってことか」って睨みつづけていたいと思う。できれば書き残したいと思う。そのことにどういう意味があるかなんて知ったこっちゃないです。

 俺は人間なんざ全人類の何十億分の一の価値しかないコンテンツだと思ってる節があって、コンテンツである限り、おもしろいおもしろくないの判断はなされると思うんですけど、俺には自分の手で、自分の文章でその自分というコンテンツを際限もなく肥大化させたいっていう強い欲望があるなあと思いました。