趣味における保守性

 俺は音楽を聞くにあたって、コード進行だとかハーモニーだとか、とにかくどんな音が自分に快楽を与えるのかある程度把握している。なので、俺にとって新しい音楽を探すということは、打率の高い場所を探すという行為にほかならない。まあ音楽ってとんでもねえ数がこの世にあるので、打率重視でもなければ好きな曲ってそうそう見つからない気もするんだけど、同時にふと「それって音楽聞いてんの?」という気がしないでもない。

 この手の事情は別に音楽に限ったことでもなさそうだ。というのは、俺が好きなものに、かつては少女マンガがあって、現在はエロゲというものがある。ある創作ジャンルが好きってのはどういうことかっていうと「そのジャンルのものならなんでも食う」ということである。少女マンガを読んでいたのは1990年代のなかばくらいまでだが、おそらく俺はその時代までの「少女マンガ」という大きなくくりが提供していたなにものかが好きだったのだ。そして浴びるように食うなかから、自分の味覚の好みみたいなものがわかっていく。快楽の体系みたいなのが発見されていく。それは煮詰まっていくということでもあるのだが、煮詰まっていきながらも、それでも大量の少女マンガを読んでいるのである。なんなら別の快楽の体系が開発されることもあるだろう。とにかく「大枠として」少女マンガが好きならば、そのなかで自分の「好き」だけをモチベーションにじたばたとあがくという行為そのものが、ジャンルに対する愛情みたいなもんである気がする。

 もちろん音楽を聞くのは好きだ。聞いている量でもそうそう人後に落ちないと思う。ただそれでも、最近の俺がやってることは「音楽好き」というのとは少し違う気がする。

 音楽、ことに大衆向けのものは非常に保守的なものだと思う。文法が変化しない。これは、たとえば小説なんかとはかなり違うところだ。もちろん小説なんかでも一線をブチ越えて人気が出るような作品っていうのは、わりと古典的なストーリーテリングのお作法に則っていることが多い。ただそのお作法の上に乗っかっている物語は「我々のためのもの」ではないことも多い。そこ行くと音楽におけるコードってお約束はわりと絶対ですから。

 なので、新しいものであろうが古いものであろうが関係ない。

 ……ってところまで考えてふと気づいたんだけど、俺って結局「女の子かわいい」「ちっさいこかわいい」「ハーモニーが好き」なんかの、快楽の体系をただ追求してるだけでここまで来てしまった気がしないでもない。俺がそうした創作物の消費者として存在しつづけてられる理由って、一面ではそうした異常な頑固さ、保守性みたいなものに由来してんのかもなーと思いました。