より内側へ

 いったいどこへ進むんだろう、あるいはもうどこにも行かないのだろうかみたいなことを考えている。というのは、最近の某せんせのブログを読んでると、書き手として確実に大きく、強くなってきてるなみたいなことを感じてて、それはとうぜんそうなるべくしてなってきたわけで、自分の内側からわいてくる問題意識と向き合って、それに対して暫定的にでもなんでも回答を出してきて、その回答が次の疑問を生み、なんて繰り返しのうちには大きな問題にたどり着かざるを得ないような部分があって、そして問題なんてものは大きくなればなるほど、それを乗り越えるにはそれ相応の努力が必要となるわけです。それをするかしないかってだけの違いで。

 んでまー、そういう人を見て嫉妬めいたものを感じた自分にむしろ驚いた。自分のなかにもそういう感情があるんだ、という。まあこれ、かつては同じ場所で、同じようなステータスで書いてたからってのがあるんだと思いますけど。じゃあ自分のその場所から現在に至るまでなんかしてきたのかっていうと、これが笑えるくらいなんもしてないのです。自分の思想からいうと、そこで嫉妬という感情を覚えるのは、その権利すらないということになるはずで、だからこそその矛盾に自分でも驚いてるんですが。まあ嫉妬っつっても「あれいいなー、俺もなんか目立ちたいなー」くらいなんですけど。

 とつぜん話は変わるんですけど、俺は30歳くらいまで本当に異性というものに縁がない人で、その縁のなさってのは、なまじのものではなくて、もはや性欲ってものがリアルの女性に結びつかないっていうレベルだったんですよね。なぜ結びつかないかというと、まあ単純にいうと人間ってものが怖かったので、対象が男であれ女であれとにかく怖いわけです。さらにいうと「俺みたいな人間、自分が女性だったら近寄らないよなあ」という納得があったので、そもそもセックスとかそういうのの対象として「ありえない」という場所に女性全般が押し込まれていた。男性とセックスするのが考えられないのと同じように。

 不思議なもので、こうなるとカップルとか見ても嫉妬とかまったく起こらないんですよ。だって自分には関係ないことだから。俺がブログでそこそこ認知度を得たころって、ちょうど非モテがどうこうって話題がわりと華やかだったころだったんですけど、それ見ててほんとに不思議だったんですよね。なんでそこに嫉妬なんて感情が出てくるんだろうって。そもそも女性に受け入れられる可能性がゼロなのに、モテないことで苦悩すんのおかしくない?って。まあどーぶつとして生まれたなら番うのが正常かもしんないんですけど、理由はどうあれそのどーぶつの流れから外れたとこに存在してるんだからしゃーないじゃん。そういう生物なんだよ。いってみれば人間の亜種ですよ。

 まあそんな人間がなんかの拍子に結婚してしまうのでこの世はわからなかったりするんですけど、それも恋愛とかは経てないっていうわりと特殊なケースです。

 ところが40歳越えたあたりから、わりとカップルとか見るとうんこ散弾銃で狙撃とかしたくなってきたんですよね。なんでかなって思ったんですけど、それってたぶん俺がこの世界で「わりとふつうに」生活できてることが原因かなと思った。つまり「俺は思ったより異常な物体ではなかったのではないか」「ひょっとしたらふつうに学生のころに恋愛とかやって、うまくすれば教室セックスできる可能性もあったのではないか」みたいな疑念が兆してからです。いや、教室セックスあんまり好きじゃないんですけど。

 要するに「ひょっとして、自分もあの場所に行けたのではないか」という「可能性」ですよね、それに気づいたらようやくカップルが憎い、世のすべてのバレンタインチョコを生肉に入れ替えてやるみたいな感情が出てきた。

 でまあ、話戻すと、某せんせのブログを読んでて嫉妬めいた感情を覚えたというのは「俺もひょっとしたらあの場所にいれたのではないか」という感情が俺にもあったということだと思うんです。まあ俺の前歴知らないとなに言ってんだおまえっていうふうに思えるかもしれないですけど。あ、いま音楽聞きながら書いてるんで、ぜんぜん集中してないです。

 

 ただ同時に思ったんすよ。俺はどうやってもああいう方向には行けねえなあって。人間には年齢なりにできること、やるべきことがあるみたいな言説ってお若い人には嫌われますけど、期待されてる役割と大幅に違うことって、やってもなかなか世に受け入れられるのって難しいと思う。そうでなくても俺ももう50歳近いわけで、いまさら学校の屋上での制服セックスについていかにそれをしたかったか真剣に述べたって、いま現にそれをしたいと願ってる20歳の若者と比較しておもしろいもんが書けるかっていったら、そりゃ書けねえですよ。しかも年齢ってそれだけでバイアスですからね。

 だとしたら、この年齢に期待されてることって、たぶんいままでの経験と知識を総動員して、そう簡単に腑分けできねえようなでっかい問題に立ち向かうことなんですよ。より多くの人の叩き台になりうるでっけえ斧みたいなので、ズッギャーーンってやること。文章も思考もある意味で筋力ですから。それを鍛えつづけないと、でっかい問題には傷ひとつつけられねえです。

 けど、仮に俺が書き続けること、おもしろいものを提供することを努力しつづけたとして、その方向に行くかなあっていうと、行かないと思う。内向的だから。

 そうそう、この内向性ですね。いまにして思うとって話なんだけど、50年近い人生のなかで、あのブログやってた数年間って、唯一「外」を向いてた時期なんです、たぶん。最後のほうではだいぶ無理来てたし、閉鎖せざるを得ないような事情がなかったとしても、どこかで燃え尽きてた可能性は高い。読者が「みんな」になっちゃった時点で、もうアウトだったっぽい。それは結局、外向いてるように見えても本質は内向的で、だれかに向かってなにかを投げかけるような行為に興味がなかったからだと思う。俺には「みんな」に伝えたいことなんて、特になかったんです。

 

 とはいえ、現在になって思うのは、書くってこと、表現することって、本質的に「内」と「外」の相克みたいな部分含んでるんじゃないかなってことです。外を向かなくなった俺には摩擦がなくなった。それはたぶん、停滞です。あくまで「いまにして思うと」って話ですけど、俺は、活用できた人脈をもっと活用すべきだったし、苦手でももっと外に出ていくべきだった。もっとたくさんの人に会って、いろんなことを話すべきだった。期待されたら応えようとすべきだった。

 いまからでもできんじゃんって話なのに、なんで過去形になってるかっていうと、たぶん10年前にタイムスリップしても俺は同じように引きこもって、外には出ていこうとはしないだろうなあと思うからです。自信あるわ。

 じゃあ俺はどこに行くんだ。

 たぶん内側に。より深く。だれかにとって意味があることよりも、自分にとってしか意味がないことを連綿と考えつづけて、なんか書いてんだと思う。自分を完全に納得させることに成功するその日まで。そんでたぶんその日って来ないんですけど。