ガチャよくわからん

 ようやく風邪が少しまともになってきた。というより風邪のそのものは治ったんだろうが、ひたすら寝て過ごしていたため、体力のほうが戻ってきてなくて、ちょっと動くとすぐに疲れる。

 それはそれとして、ソシャゲに関するエントリを読んでて、ちょっとガチャというものについて考え込んでしまった。といっても俺はソシャゲと呼ばれるものは駅メモしかやっておらず、それもどこにも出かけられないという絶望的な理由によって途中で飽きてしまった。さらにいえば、やった限りではあの駅メモってゲーム、ちょっとどうかと思うくらい課金への導線が下手で、特にガチャで重課金するみたいな人の比率はわりと少ないほうじゃないかと思う。あくまで印象なんで、実際は知りません。少なくとも月額500円払っときゃ、あとは「是が非でも課金せねば」というような気分になることはあまりないタイプのゲームだと思われる。県をコンプするとかそういうレベルになってくると話は別かもしれない。

 なんでまー、多くの人が見ているソシャゲの世界はよく知らんわけだ。

 にしても、俺はガチャに限らず、この手の「射幸性をあおる」ものと非常に相性が悪い。ギャンブルはパチンコくらいしかやったことがないが、疲れるので飽きる。仮に儲かったとしても、なんか「俺がなにをしたというので儲かったのだろう」みたいなことをぼんやりと考えてるうちにアホらしくなってくる。しかしやるからには儲からないと意味がないわけで、そうすると「儲かるか儲からないか」を気にしている自分というものにいらいらしてくる。俺はなんのために金を出してこんな状態を買ったんだ。不快になるためか。意味がわからん。そうなる。

 ガチャでも同じで、そりゃメロのレベル上限が上がればうれしいにはうれしいのだが、99まで持ってくためにいったいあといくら出しゃいいんだと。そう考えるとアホらしくなってくる。これがたとえば「5000円出せばメロだけは確実に上限まで上がる」ということであれば話は別だ。まあ払わないだろうが、迷いはすると思う。まあなんか一度に10回ひけるやつとかだと確定で自分の好きなやつ1体の上限は上がるらしいんだけど、それ何回繰り返しゃいいんだよってなると、やっぱやる気なくなる。そもそもこの場合の俺は「メロのレベル上限を上げる」ことに金を使いたいのであり、それ以外のことにはビタ一文払いたくないのである。

 俺にとってコンテンツとは「買う」ものである。自分の商売のせいもあるだろうが、俺はとにかく「買う」ということに異常なこだわりがある。買うという行為は「金払ったかわりに、なんか自分にいいことがある」というのがその原風景である。で、そう考えると俺にとって単位のひとつとなるのが文庫本である。桁がひとつ上がると基準はエロゲになる。この基準は牢固として俺のなかに根付いていて、もはや覆しがたい。なおこの意味で、人生でいちばんコスパのよかった買いものはエロゲでも小説でもなく布団乾燥機である。払った金のわりに与えてくれた幸福の総量はいかなるエロゲよりもでかい。

 そこいくと、ガチャというのは最初から問題外だ。払った金に対して与えられる幸福の量が確定していない。もちろんエロゲだって小説だって確定はしていないわけだが、それでもそこでは選んだのは自分である。クソつかまされてもそれを選んだのは自分なのだ。それに8800円なら8800円の価値があると信じて買ったのである。逆にいえば、どんな手使ってでも8800円分の価値は搾り取ってやるという気分にもなる。まあそういう気力すら奪い取るゲームも確かにありますけども。

 何度もいうがガチャで8800円出して、あるキャラが入手できることが確定していて、それに付随したシナリオも読めるとか、そういうのなら、場合によっては金を出す気にはなる。

 また百歩譲って、確定していなくてもゲームシステム上入手が不可避であるというのなら、やはりまだ理解はできる。実はこの点に関しては、以下のテキストを読んで考えたことがある。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

 で、これに関しては、俺は「ゲーム進行のための必要なものがガチャというかたちで埋め込まれている」「そしてそれがガチャという射幸性の強い要素によって左右されている」ことに対する違和感かと思ったんだけど、どうも違うらしい。違うのは確実であっても、根本要因がなんであるかはご本人にもうまく言語化できてないらしいので、実際にFGOやってない俺にわかるはずもない。ただそこに「なんか」はあるらしい。確実に俺が知らない「なにか」が。

 というわけで、俺に言えることはここまでである。もともとTYPE-MOON作品とは相性悪いってのもあるのでよほどのことがない限り関わることはないだろうし、そもそも金を使うことに運が絡んでくるという段階で俺にはもうガチャというシステムそのものがアウトなのだ。あくまで「俺にとっては」である。ほかの人にとってどうなのかは知らない。

 ただ漠然とした予感としては、俺が極めて密室性の高い、個人的な消費者であるということは理由になりそうな気がする。俺にとってコンテンツを買うことはスナック菓子を買うことと根本的に違いがない。なので、自販機に130円を投入して缶コーヒーのボタンを押したら「かならず」缶コーヒーが出てこなければならない。もちろん知らない缶コーヒーであれば当たり外れはあるだろうし「缶コーヒー」という範囲内なら、むしろ当たり外れのランダム性は嫌いではない。1300円出せば世にもまれなすっげー缶コーヒーが買えるかもしれない、という状況は必要ない。なぜなら俺が飲める缶コーヒーは1本だからだ。このへんは俺の頑迷な保守性がよくあらわれているかもしれない。

 また、俺にとってコンテンツを買う行為は基本的に自分の内部で完結してしまう性質のものでもある。比喩を続けるなら、缶コーヒーは買って飲んでおいしかったかまずかったか、それでおしまいであり、缶コーヒーについて他人と語らう必要はないし、おいしさ(まずさ)を他人と共有する必要もない。俺のまだ知らぬ缶コーヒーに関して、他人の評価は参考にはなるかもしれないが、そもそも飲む俺にしてからが「今日はサンガリアのうっすいやつをあえて飲みたい」と思っているかもしれないし、安定のエメマンで済ませたいかもしれないわけで、ブレている。実況する、感想を書くというかたちで頻繁にアウトプットはするが、いってみれば俺は道端を犬が歩いててもアウトプットするし、カレー食ってもアウトプットする(うんこではない)(すいません)人間なので、まあコンテンツに限った話ではない。

 

 んでまー、それ以前の問題として、俺がコンテンツに求めるものは「物語」で100%なので、ゲーム性とか完全に余分なものだったりする。つまり、端的にいってゲームに向いてねえ。ガチャとかいう以前の話である。まったくお話にならない。俺が。

 ちなみにこの「物語」に対する執着はかなり偏執的なもので、原則的に俺は「その作品を作った人間が存在する」ということを認めたくない。スナック菓子を食うのに、カルビーの担当者の名前と作った過程を知る必要は別にない。それと同じ理由で、俺は文庫のあとがきを読むこともほとんどない。作中へのメタ視点の混入は大嫌いだ。

 

 というわけで、ガチャにお金を払う人は、おそらく俺がよく知らない、あるいは拒絶しているものに金を払っていることになる。この頑迷さによって俺が得られないものはたぶんけっこうあるのだが、幸いなことにコンテンツの供給はまだまだ豊富である。物語を得るために、そういう課金のしかたが必要不可欠になってきたら話はまた別だろうが、そうなったときには、たぶんもう新しいものを見る必要はない、と開き直って青空文庫を端から端まで読んでると思う。

 どうでもいいけど結論ねえにもほどがあるな、この文章。まあいいや。

 あと修正ついでに読み直してみたら、単なるケチなんじゃねえかって気もちょっとする。実際はそうでもねえんだけどなあ。